■アート驚く

芸術とは

芸術とは何か。認められないものだ。認められないものが芸術である以上、芸術を認めるということは、自分の作り出した偶像を崇拝するということであり要するにモデル体型で姉御気質で顔は少しキツ目だけど突っ張った印象はさほど与えない皆の羨望と欲望を一身に集めながらも「何で自分ってモテないんだろう」という鈍さを併せ持った安めぐみを認識することに似ている。

そんな安めぐみを認識してしまうと起こる問題は、安めぐみ本体の存在の危うさが増す、ということだ。この認識上の安はめぐみであってめぐみでない。僕らが作り出した偶像、あるいはイメージに過ぎないのだ。これの比重が増すと世界はイメージ高めぐみ安というダジャレを被爆する。

ガツンとシリーズのグレープフルーツだけは芸術だが、放射能によって生まれたミュータントだ。旨すぎて話しにならん。ガツンとシリーズには今後もさまざまなフルーツが挑戦し続けるだろう。もしかしたら今まで日の目を見なかったフルーツが、思わぬスポットライトを浴びるかもしれない。ガツンとシリーズは果物界のM-1グランプリなのやねん。

果物というものは自然の幸ではあるが、一部のそれは一部の人間に加工されることによって市民権を得る。本物のマンゴーを、マンゴープリンなどより先に食べたことのあるニンゲンが果たして何人いるか? フルーツ界のシンデレラは、王子と恋に落ちてからカボチャの馬車に乗るのだ。逆回し童話、子供たちの記憶力次第ではシンデレラが魔王の心臓を抉り出すサクセスストーリーになっても文句は言えないインパクトにあふれたこの皮肉は確かに存在する! そして人々は加工されることによって知った果物のリアルを知りたいとさえ思うのだ! この悲劇! この喜劇! 人々は「ガツンと未知のフルーツ」を食べることで、未知のフルーツを想像し、いざ自然の恵みに遭遇したら、その現実に落胆し世界はまたもやイメージ高めぐみ安を被爆する。

後悔しても、もう遅い。

2006年06月10日 21:00