着ている衣服の数と性欲は反比例する。
これは「うんこって苦い」に代表される「誰も確かめたりはしないけどなんとなくそうだと理解している事柄」に当てはまるもので、「夏の女は大胆」とか「裸の女は大抵オサセ」といった慣用句にも反映されている。そもそもあれだけ膨大な旧皮質の表層にぺんのり張り付いた新皮質が理性を司っているという現実そのものが図らずも以上の証左となってしまっている。
知恵の実を食したそのときから、イチジクの葉を身につけたそのものから、衣服は理性の象徴であり権現なのだ。シャツにはシャツの理性があり、フリースにはフリースの理性がある。ワインを造るためにぶどうを踏む女も、なまじ衣服を着ていれば飛び散るぶどうの汁や靖国参拝の是非が気になったりするだろうがこれが素っ裸ならどうだろう。最早そこに理性の入り込む余地はなく延々とぶどうを踏むことができる、いや、何なら少しねじりを加えたりも出来るかもしれない。衣服の消滅によって、ぶどう踏み本能が露呈するのだ。
僕はこの事柄を自らを実験台にして証明した。簡単なことだが。いわゆるパンツ一丁ですごしてたらオナニーの回数が凄い増えた理論に基づくパンツ一丁にて一週間ほど過ごしたらオナニーの回数が凄い増えた機構を実践することで、果たしてパンツ一丁で過ごすとオナニーの回数が増えるのかどうかを観察する実験法だ。これによって、パンツ一丁だとオナニーの回数は凄い増えることがわかった。
人の理性などというものの儚さを証明してしまうような実験結果だが、悲観することはない。人が祝福することで技術は叡智になる。そう、例えば、好きな子とせっかく二人きりなったのに何も言えなくなってしまう、そんなときは彼女にパンツ一丁になってもらおう。きっと、もっと、ずっと素直になれる。
2006年08月16日 18:01