車。
仮免を取得したもので、結構前からもう路上に出ているのだけど、ずっと抱いていた「僕に車を運転する才能が無い」という疑念が確信に変わった。どう考えても生まれてくる時代を間違えてしまった、ここまで車が普及してしまって「免許持っているのが当たり前」のような世の中では「けっ、車なんてアメリカの乗り物、馬鹿らしくて乗ってられっかい! 男は黙って赤ふんどしにセグウェイ一丁じゃけぇっぽい!」とも言えない。
まず僕は、めちゃくちゃ頭が固い。あるものを「これはこういうものだ!」と思い込んだらまずそれを曲げようとしない。他人がその認識を曲げようとしてきたならさらに大きな力で曲げ返してついには元の位置に戻してしまい、そこから動こうとしない。メトロノームだったら非難の第九で武道館が満員になったことだろう、人間で良かった。母親の好みが「リズム感」に偏っていたら、父親がメトロノームだった可能性も否めないわけで、そういう意味ではお母さんありがとう。
そんなわけで頭の硬度という点では冷水にひたしたガムと良い勝負の僕にとって「路上」とは、徒歩あるいは自転車に乗っているときに認識する路上以外何者でもないのだ。信号はある程度なら無視できるし、巻き込み確認、制限速度、進路変更、そんなものとは無縁の路上をずっと認識してきた、まして標識なんてものは超人が武器に困ったときに引っこ抜くために置いてあるもので、その数字や記号に意味があるなどと思ったことがない。
つまり僕を路上に出すということは、ライオンを幼稚園に放すことと同義なのだ。後者ならまだ勇気ある年長組が、懐にすべりこんで喉元をごろごろやればライオンも懐くかもしれないが、僕の場合そうはいかない。僕は一つの、大きな、意志を持たない、鉄の塊になるのだ。スティール・ボール・ラン。右に曲がるも左に曲がるも風次第、全ては「全て」が教えてくれるのさ、僕はハンドルを持っているだけでライク・ア・ローリング・ストーン、廻すのは僕じゃない、君さ……
「あのね、三村君ね。横からハンドルもらうこと、あるけどね。これじゃまるで、僕が運転してるみたいだからね。次はもう少し、頑張ろうか」
アイム・ソーリー
2006年11月27日 22:46