■麻薬を稲荷寿司にして運ぶ板前

いなり寿司が好きだ。

寿司であるにも関わらずその聖母マリア様の如く慈悲深いお値段と、さらにその深く暖かい聖母マリア様のように甘い味わい、そして儚げな丸みを帯び金色に輝くその姿は聖母マリア様のキンタマに酷似しているのではないか? と砂浜に勘亭流で書いていたら波が空気読んで大海嘯。僕はいなり寿司への想いと共に海の藻屑となったわけだけども、それでもやっぱりいなり寿司が好きだ。

しかしいなり寿司は、一体どこまでがいなり寿司なのだろうか。

あのゴマ混じりのシャリがいなり寿司なのか、それともあのコーティングされている金色の衣服がいなり寿司なのか。おそらくそんなことを恋人に聞いたら「馬鹿ね、それが二つ、渾然一体となって初めていなり寿司じゃない」なんて言われながら真赤なルージュで書初めの添削をされてしまうだろう、でも、これは大事な問題なのだ。

どちらがよりいなり寿司の本体に近いのか、ということだ。もし僕がいなり寿司と結婚したら、生まれてくる子供はゴマ混じりの赤ちゃんなのか甘辛く煮込んだ油揚げに包まれたベイビーなのかによって、夫である僕のリアクションはかなり異なる。事前に知っておかないと、看護婦さんも困ってしまうだろう。「元気ないなり、いや男の子、いなり寿司の男の子? 男の子のいなり寿司? どっち? どっちなの!? これも医療ミスとしてカウントされてしまうの!?」

医療現場は混乱に巻き込まれてしまうだろう。あるいはお稲荷さまの祟りと吹聴するものさえ表れ、医学の権威が失墜する恐れもあるのだ。神仏などではない、現実の技術として発達してきた医学が、ただ単にお稲荷様などという油揚げの好きな狐によっていなり寿司の祟りが起ったなどとああもう油揚げが好きなお稲荷様ってもう答え出ちゃったじゃんかもー!

2007年01月20日 22:01