ベタからは逃げられないのか? ということ。
ベタってのはアレだ。何か駄洒落とかいった時に「ベタだなーお前」のベタだ。ありふれてる、良く見るものという意味のベタだ。
「焼き魚を食べてたら、魚と目が合った」
こんなのがベタの代表例だろう。
母親などはこの手のベタを恥ずかしげもなくつかってくる。それこそ毎度毎度焼き魚が食卓に登場するたびに「ちゃんと綺麗に食べないと魚がかわいそうよ。ほら、あんたのこと見てる」と、果て無きベタの一つ覚え。しかし、これがベタじゃない時期もあったはずなのだ。
史上最初に「魚と目が合う」とボケた瞬間、恐ろしいムーブメントになったはずだ。「スゲー! 考えもしなかった!」という賞賛の嵐が巻き起こり、これを発見したヤツは一躍ヒーローだ。「今日うちで焼き魚食べるから、お前来てアレ言ってくれよ!」なんてオファーも色んなところから来ただろう。卑弥呼とか意外とこういうキッカケで女王になったのかもしれない。
しかしそれが「凄い」とわかった人たちが勝手にそれを使い出し、そして普及し、誰もが知ってることとなってついにそれは「ベタ」に堕ちてしまう。
つまり全ての出来事が「ベタ」になる可能性を秘めている。「ベタ」を超えるにはどうすればいいのか。「ベタ」を応用することで「ベタ」から解放されたりはしないだろうか。
「魚と目が合ったけど、気まずくて目逸らした」
これはベタの改変だが、別に新しさは感じない。応用という感じがするだけである。
「魚と目が合ったと思ったら、目逸らされた」
これはちょっと切ない。「あれ、自分の食べ方が悪いのかな」って気にもなる。しかしながら相手は全裸っていうか骨だ。恥ずかしくて目を逸らす気持ちもわからないでもない。好きだからこそってのもある。
「魚と目が合ったと思ったら、西本だった」
これは西本に失礼。魚介顔とはいえ失礼。
「魚だと思ってた」
何に対して、という話だ。二十歳の誕生日に「大事な話がある」って父親に言われてのコレなら相当ショックだ。そりゃ道理でうちの風呂はやたら醤油とみりんと酒と砂糖が入ってると思ったわ! ってな怒りと戸惑いで口パクパクするしかない。そんでまた父親が麩投げてきたりな。
「焼き魚食べてたら、魚と目が合った」
「ちょっと自意識過剰じゃーん? うちらみんな焼ッキー&魚のファンで、ずっと見てたんだからそりゃ一度ぐらい目が合うってー!」
タッキー&翼を焼ッキー&魚と思ってるジャニーズファンが身近にいたとしたら気をつけよう。蛍光ペンでバラードが終わるまで殴られるぞ。その後、焼沢秀明と今井魚のどこが魅力的かを延々語られるだろう。あと目が合うってのは大体錯覚だ。ああいう人たちって会場の後ろの壁とかに視線固定してたりすること多い。
ベタから逃げることが不可能ならば、今挙げたものもいずれ「ベタだな」と一笑に付されてしまうのだろうか。
とりあえず魚類顔の西本が現れたら、何らかの合図だ。
2007年11月06日 20:13