■ゆかしたん

そこは古い一軒家。
築三十年をゆうに超えもちろん耐震構造なんて何それ、食べれるの?然といったおんぼろ屋敷。そのせいもあってか家賃は安く、大した審査も無く即入居が可能だというので、金の無い俺は逡巡するかどうかすらの逡巡もせず契約を済ませた。

入ってすぐのところに十畳ほどのリビングがあり、床は畳張りのまさに古きよき一家団欒タイプのリビングだ。夏場だというのにその部屋だけヒンヤリと涼しかったのが気に入り、そこに生活スペースを設けることにした。

その夜。

気づいたのは夜半を過ぎた辺り。最初に聞こえたそれは、寝ぼけ眼に思索するのも面倒なほどに微かな音だった。どういう音か断ずるのも困難なほど微かであったが、強いて言うならカリカリと、床の内側を節足動物がせわしなく歩いているような音。あるいは、爪で、小刻みに引っかくような音。

古い家だから、畳の下でネズミでも走っているんだろう。そう思ってまた眼を閉じた。それから五分も経っただろうか。音は、最早耳を床につけていなくとも聞こえるほどに増大した。若干の気味悪さに襲われた俺はまず部屋の電気をつける。音は鳴り続けている。

ためしに音の鳴る辺りをゲンコツでこづいてみると、音は、怯んだように止んだ。しばらくそのまま床に張られた静寂の膜を眺めていたが、破られることは無いようであったので電気を消して再び床についた。

しばらくして、またあの音が鳴り始めた。今度は寝転がったままゲンコツを床に見舞う。また音は止む。そして間々あって、また音は戻ってくる。それも先ほどより大きく、はっきりとした響きを持って。俺はなんだか性悪な猫にでも馬鹿されているような気がして、今度は乱暴に足の裏でどすんと大きく床を蹴った。音はまた止んだ。

次またこの音が鳴り始めたら、そのときは畳をむしりとって音の根源を、鬼だろうが蛇だろうがその首根っこ引っつかんで就寝の作法を叩き込んでやろうと思っていたが、引っかくような音はそれきり鳴らなかった。引っかくような音は、それきり鳴らなかった。

俺は思わず床から反射的に顔を上げた。不意に、至近距離から耳打ちされたようなむず痒さが鼓膜を右から左へ貫いた。床をじっと見つめるが、特に変わった様子も無く、あの音も聞こえない。しかし胸の裏側を無数のムカデが縦横に走り回るような胸騒ぎが、恐怖が俺を掴んで離さなかった。

電気を再び点け。ゆっくりと耳を床に向ける。

「……さん……ん……」

風の通り抜けるような音だった。敷布団を払いのけ、畳へ直に耳を近づける。

「お……ん……て……して……」

べったりと耳を畳につけて、音の正体を確かめる。

「お……あさん……だ……て……だして……。おかあさん……だして。ここから、だして。おかあさん、だして。だしてだしてだして。おかあさんおかあさんおかあさんおかあさんおかあさん」

受身を取るように両手で畳を叩き顔を跳ね上げる。確かに聞こえた。気のせいなどではない、確かな言葉だ。なぜ畳の下から。あの引っかく音の主は。少女のような声だった。頭を様々な思案がグルグル巡る。カリカリと、あの音も再びともなって声は部屋に霧のように充満していった。

「おかあさん」
「だして」

なんてありきたりな展開だ。曰くつきの物件、そうだここは確かにその条件を充分に満たして……。「だしてだしてだして」考えるよりも先に体が動いた。「ここからだしてねえいるんでしょそこにだしてだして」ここにいてはいけない。「おねがいだしてだして」このままではいけない。焦燥する頭を振り回して服を着替え「おねがいだしてだして」上着を羽織り「だしてだしてだして」部屋を出ようとガラス戸を開け「だしてっつってんでしょアンタ何ちょっと余裕でハブってくれてんのよ!」ガラス戸を開ける手が止まる。

「……え?」

問いかけに対する返答は無い。俺はまたゆっくりとガラス戸を開け

「はいダメー! はいブー! バレてまーす! ゆっくりバレないように戸を開けようとしてるのバレてまーす! だからちょっとさ、なんでだしてっつってんのよ逃げようとしてんの。社交性虚数なのアンタ?」
「あの……」
「あの、じゃねーわよマジで」
「えっと……誰?」
「ハッ。アンタね。畳の下にいる女の子の向かって『誰?』って何? どういうこと? アンタ好きな子がトイレ入ったの見計らって扉の前で『好きです!』とか言っちゃう人? 出てから言えって感じじゃない?」
「だって、あの、あなた、霊……」
「あー霊。ハイハイ、霊霊。出たわー霊差別。無いわー」
「すいませ……」
「謝んなくていいから、とにかくちょっとアンタここ座んなさいよ。いつまで非常口マークのコスプレしてんの」
「あ……うん」
「えー。だからね。出してほしいって、言ってんの」
「いやそれはわかりますけど」
「けど、何。けどって何よ」
「それはちょっとムズカシいっていうか」
「難しい? 何が? 何が難しい? 別にアタシは明日のオリックス戦スタメンで出してっつってんじゃないのよ? ただこの畳の下から出して、って言ってんのよ!? 前者なら原監督以外すいません系だけどさ、後者の何が難しいの!?」
「いや、そういう物理的な問題じゃなくて」
「じゃ何、シャイなの。一つ畳の下にいる子と一つ屋根の下で暮らすのがそんなに恥ずかしいの? 何、心が仮性包茎なの?」
「いや、なんていうか、死んでるよね。君、たぶん」
「生きてたらこえーだろ!」
「死んでるからこえーんだけど」
「キャー! 男子がアタシのこと怖いってゆいますー! 傷ついたー!」
「え、だって、どういう状態で出てくるかわかんないから」
「まーそりゃあね。United Allows床下店とかあればちょっと気使ってやれるだろうけどねー」
「あの、死体とかそういう子は、ちょっと……」
「ネクロ差別出たわー死体っていっても元人間なんだからそんな大した違いないわよ」
「え、でも、なんだろ、腐ってたり……?」
「ほんと、初対面の女子に言う台詞じゃないわよね」
「腐乱系女子はちょっと」
「何よ、ちょっとばかし皮がめくれてたりするぐらいなんだってのよ!」
「やっぱめくれてるんじゃん」
「いやわかんないわかんない、皮じゃないかもコレ」
「じゃ何なの」
「湯葉かも」
「なんで湯葉と一緒に畳の下に閉じ込められてんだよ。もういいよ、すぐ引っ越すから」
「あーまってまってまって! 結構ちょっと大変なのよこうやって話せる人間と会うのも!」
「だって皮めくれてる女の子とか怖いよ。グロいし」
「あーわかったわかった、じゃあ、えー、化粧品買ってきて」
「絶対ごまかせないと思うよ」
「ファンデとチークと、あとアラビックヤマトとハサミと」
「後半工作道具になってるしね」
「あ、さてはお金無いのね? 道理でねハハーンこんな安物件ハハーン借りるってことはハハーン!」
「合点行く頻度が高すぎるよ」
「じゃーわかったわかった、えーとね、前株の『床下』で領収書」
「絶対経費で下りないから」
「あーもうアレもダメこれもダメ……あ、はいはい、なるほどそういうことか、はいはい
えー……お兄ちゃん! お願い、私をここから出して!」
「……」
「お願い! お兄ちゃん! 出してくれたら、お兄ちゃんに私の初めての成仏……あげちゃう!」
「脳のどこをいじくっても、畳を妹に見せるのは不可能だと思うよ」
「畳じゃねーよ! 本体は下!」
「いやそうだけど、こうしてみると畳が喋ってるようにしか見えないから」
「だからだしてって言ってんのよ! ほら、アンタも床としゃべってる事実を目撃され、ご近所さまから冷ややかな視線をお中元代わりに頂いて、気のドック入りしたくないでしょ?」
「あんた出したところで、他の人には見えないでしょ。だいたい俺が出しても成仏とか出来ないんじゃないの」
「なんでさ」
「おかあさんだして、って言ってたじゃん」
「あー……」
「おかあさんに出してもらわないとダメなんじゃないの?」
「いや、ちょっと、ごめん、それちょっと恥ずいからあんま言わんといて」
「え、何、方言出ちゃうぐらい動揺することなの」
「いやーだってアンタもあるでしょ? 勢いあまって先生をおかあさん! って呼んじゃうこと」
「え、その類のハプニングなのあれ!?」
「いやーこっちも聞こえると思って言ってないからさー。アンタ来る前なんか『軍曹殿!』つってたから」
「そりゃ出してもらえないでしょ」
「『軍曹殿! 不死鳥のハネで乳首をいじってる軍曹殿!』つってて」
「誰向けの呼びかけなんだよ」
「いやだからホントガチレアなんだって聞こえる人、もうそりゃ適当になるわ」
「んーじゃあ、わかった。わかったよ。わかりましたよ」
「え、え? 出してくれるの!? ディズニーランドつれてってくれるの!?」
「何をついでにレジャーしようとしてんだよ。いや、出すわけじゃないけど」
「Booo!!」
「不平の言い方がフランクすぎるわ。ま、ちょっと考えさせて」
「うわーもうホントチャンス逃す人間の考え方だわー。アンタ今五億をドブに捨てたね」
「床下霊にそんな経済効果ねーよ。でも悪い人じゃなさそうだし、俺の気が向いたら出すよ」
「ええー」
「だって畳はがすのだってタダじゃねーんだし、こっちだってそれなりの労力払うわけだしさ」
「んだよケチ。ケチンボーイ。ケチンボーイ・ミーツ・銭ゲババア」
「何その救いの無い邂逅。ま、アンタも俺逃したらいつまた声聞こえる人が現れるかわかんないわけだし、ちょっとしばらく考えさせてよ」
「うわーさらりとエグい交換条件だこと、ま、いいわ。いいわよ。はいはい、飲みますよその条件」
「じゃ、今日はもう寝るから、静かにしててね」
「何時起き?」
「八時かな。え、もしかして……モーニングコール的な」
「アタシ明日休みー! イエー!」
「死ね」
「もう無理ですぅ~! イエー!」
「寝る」
「イエー!」

2009年10月17日 00:57


心が仮性包茎!

投稿者 Anonymous : 2009年10月17日 20:58

イエー!

投稿者 Anonymous : 2009年10月18日 11:46

ほんと、声に出して笑う

投稿者 Anonymous : 2009年10月18日 20:23