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■上場すると鬼が潰しにやってくる

ってなってるところにアンケートと次回講演のパンフ持ったスタッフがね

2012年08月26日 01:14


■この端のどこからでもセックスできます

どこからがもうセックスなのか

電車内でこちらにつむじを向けてうつらうつらしてる女子高生を見ていたら、ふと、剣道部に所属していた学生の時分に、試合観覧席が道場より人一人分高くなってることを利用して、女子選手を応援するフリをしてその頭に自分の陰毛を一本ずつ乗せて成果を俺に報告してたもう死ぬっきゃない童貞の友人のことを思い出した。

あの頃はそりゃもう全力で彼をバカにしたものだ。コイツを更正させるには、一度凍らせて細かく砕いて着色したものを入れた白線引きで運動場に「SEX」って描かないと無理だなと思ったが、今にして思えばあれは彼なりのセックスだったんじゃないか。セックスは結局のところ、どこまで自分と相手との距離を縮められるかに終始するわけで、そういう意味では陰毛一本という質量を、相手の頭の上に着陸させるという発想はセックスそのものだ。きっと彼は陰毛乗せ女子を応援しただろう。あの子は今、俺の陰毛を頭に乗せたまま戦っているんだ、あんなにも凜々しく、あんなにも雄々しく! それはもう彼自身の闘争といっても差し支えなく、彼女が面を取られて負けたとき、きっと本当に負けたのは彼の陰毛なのだ。彼の股間から離陸した陰毛は最後まで彼女を守り切ったのだ。

彼は初フライト時、随分と興奮していた。
彼の心の童貞は、そのとき捨てられたのだ。

我々の知るセックスは結局のところセックスの原始に過ぎない。野蛮で全然洗練されてない石器時代のセックスだ。石器スだ。そんなものに頼らずとも、我々はセックスを遂行できるのではないだろうか。意中の相手と心を通わし、心身を合一せしめる方法があるのではないだろうか。そして皆が同じ近未来的セックス観を持つことができれば、セックスはさらに一段階上の、プラトニックなコミュニケーションとしての機能を持つことになるのだ。陰毛を乗せるという直接的な行動すら必要としない、精神と精神のアセンション、そうすなわち同じタイミングでトイレに入ったらもうセックスじゃんっていう、なあ、ねえ、オイ。


2012年08月24日 01:21


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